เข้าสู่ระบบ三つの鳴き声は、洞窟の最奥で重なっていた。
リュゼルは小刀の切っ先で岩床を確かめながら、狭い穴を進んだ。天井は低く、立って歩くことはできない。片膝をつくたび、歪んだ骨が軋み、月角兎から引き受けた痛みまで後脚へ蘇った。
右脚に刻まれた新しい墓碑紋が、淡い熱を帯びている。
湿った苔の匂い。
子どもたちを隠した岩陰。
母親が遺した記憶を辿るほど、自分のものではない焦りが胸を締めつけた。
「もう少しだけ待ってくれ」
鳴き声へ呼びかける。
言葉が通じるはずはない。それでも、声を聞かせずにはいられなかった。
穴の先で岩壁が僅かに広がった。青白い燐光を放つ苔に照らされ、枯れ草と抜け毛を集めた巣が浮かび上がる。
その中央で、三匹の幼体が身を寄せ合っていた。
どれもリュゼルの掌に収まるほど小さい。瞼はまだ完全に開かず、額の角も白い突起にしか見えない。薄い灰色の毛は湿り、肋骨の形が分かるほど痩せていた。
母親の姿を求めるように、互いの腹へ鼻先を押しつけている。
リュゼルが近づくと、三匹は一斉に顔を上げた。
「きゅっ、きゅう……!」
小さな威嚇だった。
逃げる力もないくせに、短い脚を踏ん張り、巣の奥へ身体を押し込もうとする。一匹は兄弟を庇うように前へ出たが、足がもつれて枯れ草の上へ転がった。
リュゼルはその場へ伏せ、目線を低くした。
「怖がらせて悪い。連れていくつもりはない」
左手を差し出すと、前にいた幼体が甲へ噛みつこうとした。だが歯はまだ生え揃っておらず、傷をつける力もない。柔らかな口が血の乾いた指へ触れた途端、その動きが止まった。
幼体の鼻が、小さく震える。
右脚の墓碑紋から、微かな光が流れた。
母親の匂い。
月角兎が生涯まとっていた苔と土と乳の匂いが、継承された力の奥に残っている。
一匹がリュゼルの指へ頬を擦りつけた。
もう一匹が、恐る恐る手首へ前脚を乗せる。最後の一匹も兄弟の背を越え、袖口へ鼻先を潜り込ませた。
「俺は、母親じゃない」
掠れた声で告げても、幼体たちは離れなかった。
足元へ集まり、母親を探すように墓碑紋のある右脚へ身体を寄せてくる。その温かさに、胸の内側が痛んだ。
母親はもう戻らない。
その事実を知っているのは、リュゼルだけだった。
幼体の一匹が、右脚を乳房と間違えたのか、破れたズボンへ口を押しつけた。吸うものがないと分かると、力なく鳴く。
「腹が減っているのか」
腰袋の中には、小刀と火打ち石、短い縄しかない。水は確保できても、食べさせられるものは何もなかった。
母乳の代わりになる食料など、奈落の底で見つかるはずもない。
焦りに任せて周囲を見回す。
巣の壁面には、青白い苔が幾種類も生えていた。細い糸のようなもの。丸い葉を幾重にも重ねたもの。半透明の蕾を持つもの。一見すれば、どれも同じ燐光苔に見える。
下層の苔には、触れただけで皮膚を腐らせるものもある。
リュゼルは右目を細めた。
ヴァルディオスの記憶を強く探る。
途端に、岩肌を覆う苔が巨大な竜の視界へ変わった。黒い山脈を飛ぶ途中、傷ついた幼竜たちが洞窟で青い苔を食んでいる。乳を失った竜の子へ、雌竜が柔らかな苔を噛み砕いて与える光景。
記憶の中の苔は、葉脈だけが金色に光っていた。
《光脈苔》。
深層魔力を穏やかな養分へ変える、数少ない食用苔。
リュゼルは洞窟の壁へ目を凝らした。青い群生の中に、ごく細い金色の筋が走る一角がある。
小刀で根元から慎重に削ぎ、水筒の濾過水で洗う。
まず自分の舌へ少量だけ載せた。
青臭さのあとに、微かな甘みと温かさが広がる。舌の痺れも喉の痛みもない。噛み続けると柔らかく崩れ、粘り気のある汁になった。
リュゼルは苔を小刀の平で細かく潰し、濾した水を数滴混ぜた。
「少しずつだ。慌てると喉へ詰まる」
指先へ載せ、最も弱っている一匹の口元へ近づける。
幼体は初めこそ顔を背けたが、匂いを嗅ぐと小さく舌を伸ばした。柔らかな苔を一口舐め、もう一口を求めて鼻を鳴らす。
残りの二匹も指へ群がった。
奪い合って転がりそうになる三匹を押さえ、一匹ずつ順番に食べさせる。腹が空ききった身体へ一度に入れすぎないよう、間を置き、水も少量ずつ舐めさせた。
光脈苔は、それほど多く生えていない。
壁から採れた分を四つに分ければ、自分の一食分も残せた。
リュゼルは迷わず、そのすべてを三匹へ与えた。
空腹で腹が引き攣っている。最後に食事をしたのがいつだったか思い出せない。けれど、自分は水だけでもまだ動ける。幼体たちは何かを口にしなければ、朝を迎える前に弱りきる。
「ゆっくり食べろ。もっと見つけてくるから」
幼体たちに語りかけながら、壊れた革袋を腰から外した。
底には裂け目があり、物を運ぶ袋としてはもう使えない。縫い目を小刀で切り開き、硬い留め具を外す。広げると、三匹が身を寄せて横になれるだけの革布になった。
巣の冷たい岩床へ敷き、枯れ草を上に載せる。
幼体たちは腹が満たされると、警戒することも忘れ、革袋の上へ次々と這い上がった。中央で丸くなった一匹へ、残りの二匹が重なる。
やがて、細い寝息が聞こえ始めた。
「自分の食事まで与えて、寝床まで用意するのね」
遠くから、少女の声が響いた。
先ほどよりも音が薄い。幾重もの岩壁と長い距離を隔て、細い糸だけで声を届けているようだった。
「聞いていたのか」
「聞こえていただけです」
「同じじゃないか」
「違います」
きっぱりと否定され、リュゼルは僅かに口元を緩めた。
いつから聞いていたのかと尋ねようとした時、声の調子が変わった。
「胸元へ意識を集中させなさい」
「胸?」
「痛む場所ではありません。もっと奥。あなたの肉体と魂が重なるところです」
「言われても、見たことがない」
「目で探すから見えないのよ。瞼を閉じて、自分の名を思い浮かべなさい」
命令することに慣れた声だった。
信用しているわけではない。それでも少女の言葉に従ったおかげで、黒竜の力に身体を壊されずに済み、骨喰いからも逃れられた。
リュゼルは眠る幼体の隣へ腰を下ろし、岩壁へ背を預けた。
瞼を閉じる。
リュゼル・クレイン。
自分の名を、意識の中でゆっくり唱えた。
初めは何も見えなかった。
やがて胸の奥へ、冷たい重みが生まれる。水底へ沈んだ石へ触れるような感覚だった。さらに意識を沈めると、闇の中から一枚の石板が浮かび上がった。
古い墓標にも似た、黒灰色の石板。
表面には無数の傷があり、最上部に一つの名が刻まれていた。
《葬送者》
《看取り人》ではない。
神殿で授けられ、無能の証として笑われた名は、どこにも存在しなかった。
石板の下部には、二つの名が淡く光っている。
竜哭王ヴァルディオス。
月角兎。
その横へ、それぞれの能力と、言葉にならない記憶の塊が刻まれていた。
リュゼルは目を開けた。
「《葬送者》と書かれていた」
「それが、あなたの職能の本当の名です」
「では、《看取り人》は何だったんだ」
「現在の神殿が、能力の表面だけを見て与えた名でしょう」
少女の声が、洞窟の冷気へ静かに溶ける。
「今の人間が使う職能名は、その力の一部分しか示していません。神々が地上にいた時代、職能は人の生き方や役目と結びついたものでした。剣を振るう、傷を癒やすという一つの行為だけを指すものではなかった」
リュゼルは右腕と右脚の紋様を見下ろした。
「《看取り人》と呼ばれた力も、痛みを和らげることが本質ではありません。死を迎える者の意志を受け取り、その者が遺そうとしたものを次代へつなぐ。それが原初職能《葬送者》です」
「俺がヴァルディオスや月角兎を消したわけではないのか」
問いかけた声は、自分で思った以上に弱かった。
月角兎が光になり、腕の中から消えた感触が蘇る。
「あなたが命を奪ったのなら、《葬送継承》は発動しません」
少女は迷いなく答えた。
「死者の同意なく、力を奪うことはできない。あの月角兎は、あなたへ子どもたちを託した。竜哭王も、自らの願いをあなたに預けた。肉体が光へ変わるのは、魂に残されたものが墓碑へ収められた証です」
「墓碑……」
「あなたの紋様は、死者を閉じ込める檻ではありません。名と意志を失わせないための墓です」
右脚の紋様へ触れる。
熱はある。だが先ほどまでのように、異物が皮膚へ食い込んでいるとは感じなかった。
月角兎が、子どもたちへ戻ろうとした最後の願い。
それを忘れないための印。
「なら、俺はこの力を使ってもいいのか」
「許しを求める相手は私ではないわ」
少女の声が僅かに低くなった。
「ただし、代償はあります」
洞窟のどこかで、水滴が落ちた。
「継承した力を使うたび、死者が抱えていた記憶や感情も蘇ります。竜の力を使えば、ヴァルディオスの怒りと喪失があなたへ流れ込む。月角兎の脚を使えば、追われた恐怖や子を残した焦りを感じるでしょう」
リュゼルは、黒い城の炎を思い出した。
鎖。
切り落とされた翼。
届かなかった巨大な爪。
「すべて受け入れれば、いずれあなた自身が消える。拒みすぎれば、継承した力があなたの身体を壊す」
「受け入れても、拒んでも駄目なのか」
「死者とあなたの境目を忘れないことです。彼らの願いを知り、それでも何をするかは自分で決める。言葉にすれば簡単ですが、実際には容易ではありません」
リュゼルは黒銀色の右腕を見つめた。
「都合のいい最強の力じゃないってことか」
「当然でしょう。死者の生涯を背負うのよ。軽いはずがない」
叱るような声音だった。
だが、死者を道具として扱うことへの嫌悪が、その言葉には滲んでいた。
「黒竜の力は、今すぐ使わないことです。今のあなたでは、鱗を腕へ留めることさえ難しい。完全な竜化などすれば、ヴァルディオスの骨格に耐えられず、内側から潰れます」
「骨喰いを追い払った時も、止めてもらわなければ死んでいた?」
「ええ。あと数息遅ければ」
短い答えのあと、沈黙が落ちた。
リュゼルは声の響く方へ顔を上げた。
「名前を教えてくれないか」
少女は答えなかった。
「俺はリュゼル・クレイン。お前は?」
「聞く必要はありません」
「俺だけ助けてもらって、相手の名前も知らないのは嫌だ」
洞窟の奥で、鎖が微かに鳴った。
「知れば、あなたはここへ来ようとする」
「行って困る場所にいるのか?」
「あなたが来れば、死ぬ場所よ」
声から温度が消えていた。
それ以上踏み込ませないため、自ら扉を閉ざすような言葉だった。
リュゼルが返事を探した瞬間、三匹の幼体が一斉に目を覚ました。
眠っていた耳が立ち、洞窟の入口へ向く。
《微音察知》が、異変を捉えた。
遠くで岩が砕ける。
一度。
二度。
骨喰いたちの爪音とは比べものにならない重い振動が、地面を通して近づいてきた。天井から青白い苔と砂が降り、濾過中の水筒に波紋が広がる。
「何かが、裂け目を広げている」
答えを待つ間もなく、洞窟の入口が爆ぜた。
砕けた岩片が飛び込み、壁へ突き刺さる。土煙の向こうから、黒光りする巨大な顎が現れた。
人の胴ほどもある節足。
骨の鎧に覆われた長い頭部。
左右へ開いた顎の内側では、幾重もの牙が濡れている。
《墓守蜈蚣》。
死骸の集まる場所へ巣を作り、骨喰いを従えて獲物を追い立てる大型魔物だった。
その脚の隙間から、白い目が次々と覗く。
裂け目の外にいた骨喰いたちが、主に続いて洞窟へ雪崩れ込もうとしていた。
「逃げなさい!」
少女の声が鋭く響いた。
初めて聞く、隠しきれない焦りだった。
「そいつは今のあなたには倒せない!」
墓守蜈蚣が顎を鳴らし、岩を削った。
リュゼルは壁際へ手を伸ばし、広げた革袋を掴んだ。三匹の幼体を傷つけないよう中央へ集め、枯れ草ごと包み込む。切り開いた革の端を短い縄で結び、背中へ担いだ。
小さな重みが、肩甲骨の間へ触れる。
かつて背負っていた荷物に比べれば、あまりに軽い。
けれど今度の荷は、誰かに命じられて持つものではなかった。
「聞こえなかったの? 戦えば死ぬのよ!」
「倒す必要はない」
リュゼルは小刀を握り、迫る墓守蜈蚣の脚と、洞窟の壁を見比べた。
天井の高さ。苔の生える方向。水が流れ込む細い亀裂。骨喰いが避けている白い鉱石。背後に続く、月角兎しか通らなかった狭い穴。
誰かの指示を待つ必要はない。
セルヴァンの顔色を窺う必要もない。
間違えれば責任を押しつけられるのではなく、自分と背中の三つの命が失われる。
だからこそ、自分で選ぶ。
「生きて逃げればいい」
墓守蜈蚣の顎が、岩床を噛み砕いた。
リュゼルは右脚の墓碑紋へ意識を集中させる。月角兎の恐怖が胸へ流れ込んできたが、その中から脚の動きだけを慎重に選び取った。
《瞬脚》。
銀灰色の光が右脚を包む。
リュゼルは迫る牙へ背を向け、自分で選んだ逃走路へ踏み込んだ。
骨の谷を進むほど、イセラの足取りは遅くなっていった。道に迷っているわけではない。むしろ、忘れたはずの景色が一つずつ戻ってきているようだった。白く乾いた骨の斜面を越え、岩壁が細く裂けた場所へ入るたび、彼女の黒豹の耳が小さく動く。鼻先が風を拾い、琥珀色の瞳が足元の石や壁の傷を確かめる。そのたびに立ち止まり、しばらく何も言わず、また歩き出す。リュゼルは少し後ろを歩いていた。先頭を譲ったのは、道を知っているからだけではない。ここから先は、イセラの場所だと思った。足元には、誰かがかつて通った痕跡が残っている。灰色の岩へ半ば埋もれた布片。長い年月で色は失われているが、端に赤い刺繍糸が一本だけ残っていた。イセラがしゃがむ。指先で布へ触れようとして、止まった。「知ってるのか」リュゼルが尋ねると、彼女はしばらく答えなかった。「ハルクの外套だ」低い声。「赤い糸を縫ったのは、ミアだった」誰なのか説明はしない。それでも、それが仲間の誰かであることは分かった。イセラは布を拾わなかった。ただ一度だけ指先で端を撫で、立ち上がった。少し先では、折れた矢が骨の間へ刺さっていた。鏃は錆びている。軸の木は腐り、半分ほどしか残っていない。「これは?」リュゼルが訊く。イセラは見ただけで分かったらしい。「セラド」「弓を使ってた?」「ああ」短く答え、矢の横へしゃがむ。「下手だった」「弓兵なのに?」「本人は上手いと思ってた」わずかに口元が動いた。笑みとは言えないほど小さい。それでも、これまでのイセラにはなかった表情だった。「止まってる標的には当たった。動いてる相手には、よく外した」「それは結構まずいな」「だから私が先に脚を切ってた」「なるほど」「本人は『連携だ』って言ってた」今度こそ。イセラの口元がほんの少しだけ緩んだ。すぐに消えた。その後も痕跡は続いた。石の隙間に挟まった獣人用の耳飾り。小さな牙を三本束ねた首飾り。切れた革紐。竜人が身につける爪飾り。どれも朽ちかけている。どれも。イセラには分かる。「ここを通った」彼女が呟く。「間違いない」声が少しずつ固くなっていた。リュゼルの墓碑紋は、谷へ入った時から熱を持ったままだった。耳に聞こえない声が、絶えず頭の奥へ流れている。《暗い》《帰りたい》《誰か》
イセラの視線は、リュゼルの右腕から離れなかった。黒銀色の墓碑紋は、灯石の青白い光を受けても光らない。むしろ周囲の明かりを吸い込むように沈み、皮膚の下へ食い込んでいる。骨の谷を吹き抜ける冷たい風が外套の裾を揺らし、積み上がった無数の骨が微かに擦れ合った。かさり、かさりと乾いた音が続くたび、リュゼルの頭の奥では、まだ消えきらない死者の囁きが薄く重なっていた。イセラはその音とは別の何かを聞いているように、黒豹の耳を後ろへ伏せた。「死人を連れてる」もう一度、低く言う。「一人や二人じゃない」リュゼルは腕を下ろしかけたが、イセラの視線がそれを追ったため、止めた。「連れてるって言われても」「とぼけるな」湾曲刀へ手が伸びる。抜いてはいない。それでも、いつでも抜ける位置だ。イセラは一歩だけ距離を取った。「屍喰らい」その名を聞いた瞬間、ネフィリアの表情が変わった。「何ですって?」声が冷える。イセラは彼女へ視線を移さない。「奈落で昔から言われてる怪物だ」「怪物?」リュゼルが眉を寄せる。「死体を食う。死んだ奴の力を奪う。剣士を食えば剣を使えるようになり、術師を食えば術を盗む。何百人、何千人と食って、最後には自分が誰だったかも分からなくなる」イセラの琥珀色の瞳が、墓碑紋を睨むように細まる。「身体中に黒い墓印が広がって、最後は人間の形すら失うって話だ」骨の谷の空気が、一段冷たくなった気がした。リュゼルは反射的に右腕を見る。紋様は手首から前腕へ伸びている。最初に現れた頃より、明らかに広がっていた。古代魔獣ヴァルディオスを看取った時。その力と記憶を受け継いだ時。さらに死者溜まりへ近づき、無数の声を聞くようになってから、黒銀色は以前より濃くなっている。最後には人間の形すら失う。その言葉だけが、嫌に耳に残った。「違うわ」ネフィリアが前へ出る。彼女の足元から黒紫色の影が薄く広がった。攻撃ではない。ただ、リュゼルとイセラの間へ割り込むように。「彼は奪っていない」イセラがようやくネフィリアを見る。「随分と信じてるんだな」「知っているだけよ」「何を」「彼がどうやってその力を得たのか」イセラの耳が僅かに動く。「死人本人に聞いたのか?」「そうよ」即答だった。今度はイセラが黙った。骨の谷に、遠くで骨片が崩れる音が響く
血に濡れた大剣は、持ち主を失っていた。石床へ深く突き立った刃の脇に、半ば白骨化した巨躯が横たわっている。鎧の隙間から覗く骨格は人間より明らかに大きく、砕けた兜の左右には角らしきものが残っていた。死んでからどれほど経つのか分からない。それなのに刃へ付着した黒い液体だけは乾いておらず、灯石の青白い光を濡れたように返している。だが、リュゼルの目を奪ったのは大剣でも死体でもなかった。その向こうに、途方もなく広い谷があった。岩壁に囲まれた空洞という言葉では足りない。天井は灯石の光が届かないほど高く、左右の壁も闇の奥へ消えている。谷底を埋め尽くしているのは土ではなく、骨だった。獣の肋骨、人間の頭蓋、角を残した魔族の骨格、翼膜だけが黒く乾いた竜種の残骸。それらが幾層にも積み重なり、白灰色の斜面となって遥か奥まで続いている。そして、その骨の海の中央で。一人の女が戦っていた。褐色の肌。顎のあたりで鋭く切り揃えられた黒髪。頭頂から生えた丸みのある黒い耳は、獣のそれだった。腰の後ろから伸びる長い尾が、身体の動きに合わせてしなやかに揺れている。獣人。女は二本の湾曲刀を握っていた。右の刃で襲いかかる骨蜘蛛の前脚を受け流し、左の刃を胴体の下へ滑り込ませる。硬い外殻が擦れ、火花が散った。刃先が奥に隠れた黒い核を正確に穿つと、巨大な蜘蛛の身体が一瞬硬直し、そのまま何百もの骨片へ崩れ落ちる。「速い……」リュゼルは思わず呟いた。実戦経験の差は見ただけで分かった。踏み込む位置。刃の角度。次の敵を見る視線。一つの動作が終わる前に、すでに身体が次へ向かっている。無駄がない。それでいて機械的でもない。足場となる骨が崩れることまで計算し、滑るなら滑る動きのまま刃を振るう。自分より遥かに強い。少なくとも今のリュゼルが、正面から一対一で勝てる相手には見えなかった。それでも。「まずいな」女の左腕から血が流れている。肩口から肘にかけて大きく裂けており、黒い革鎧が赤黒く濡れていた。動くたびに傷口が開き、血が指先を伝って湾曲刀の柄へ落ちている。骨蜘蛛はまだ十を超えていた。死者溜まりの魔力を吸って動いているのか、身体の大部分は獣や人の骨を無造作につなぎ合わせたような形をしている。一体倒しても、周囲の骨山から新たな脚が突き出してくる。「行くぞ」リュゼルが踏み出した。
城を出てから、およそ二時間が過ぎていた。奈落に太陽はなく、空の色で時刻を測ることもできない。それでもリュゼルは歩数と休憩の回数、灯石の燃え方を身体に刻み込むようにして時間を数えていた。最初の一時間ほどは、城の周囲と大きな違いのない岩の通路が続いた。湿った灰色の壁、ところどころに群生する青苔、天井から落ちる冷たい水滴。シュカたちが話していた赤い岩場も通り抜けた。地熱を含んでいるらしく、掌を当てると人肌ほどのぬくもりがあり、そこだけはわずかに硫黄に似た匂いが漂っていた。ネフィリアは何も言わず歩いている。歩幅は一定だった。少なくとも、そう見えるようにしていた。リュゼルは前を向いたまま、背後から聞こえる足音へ意識を向けた。右、左。右、左。革靴が石を踏む音は乱れていない。ただ、最初より一歩ごとの間隔がわずかに長くなっている。呼吸も静かだが、時折鼻から深く息を吸っていた。まだ休ませるほどではない。そう判断し、リュゼルは自然なふりをして歩く速度を少し落とした。すぐ後ろから声が飛ぶ。「私に合わせているの?」「道が悪くなっただけだ」「今までと変わらないけれど」「石が滑る」「乾いているわ」「細かい砂がある」「ないわね」間を置いてから、リュゼルは振り返った。「元気そうだな」ネフィリアは紫紺の瞳を細めた。「喧嘩を売っているのなら買うわよ」「元気ならいい」それだけ言って前へ向き直る。背後で小さく息を吐く音がした。怒ったのか、呆れたのかは分からない。ただ、歩調はそのままになった。やがて通路の幅が広がり始めた。最初に変化へ気づいたのは匂いだった。湿った土とも、腐肉とも違う。乾いた骨を砕いた時に漂う、わずかに粉っぽい匂い。リュゼルは足を止める。灯石を高く掲げた。青白い光が壁面を滑る。そこから何かが突き出していた。白い。細長い。「骨……」近づく。岩壁へ半ば埋もれるように、人間ほどの長さを持つ骨が一本突き出している。大腿骨に見える。だが、太い。人間のものより一回り大きい。さらに灯石を横へ向ける。一本だけではなかった。壁のあちこち。石の割れ目。床。天井近く。数えきれない骨が、岩と一体化するように埋まっている。ネフィリアが隣へ並んだ。「魔物だけではないわね」「ああ」すぐ近くの壁には、明らかに人間の頭蓋骨が
探索に持ち出す道具を長卓へ並べ終えた頃には、広間の床へ淡い紫の光が落ちていた。天井に埋め込まれた王域の結晶灯は時間によって明滅するらしく、眠りから覚めてしばらくすると、夜を模した青黒い色から柔らかな薄紫へ変わる。地上の朝日とはまるで違う。それでも、いつまでも同じ暗闇だった奈落に目安となる光があるだけで、人の身体は不思議と時間を思い出すらしい。子どもたちは食事を終え、水路で顔を洗い、三匹の月角兎は広間の隅に積まれた青苔へ鼻先を埋めていた。リュゼルは長卓の上に水袋を二つ置き、縄を巻き直した。保存食、火口箱、薬草、包帯、解体用の小刀、革手袋、予備の灯石。昨日作った地図は湿気を避けるため革筒に収め、黒鎖短剣は腰へ差してある。死者溜まりそのものへ踏み込むつもりはないが、何が起こるか分からない以上、持てるものは持っていくべきだった。問題は、誰が行くかだった。「俺一人で行く」革紐を締めながら口にした途端、向かい側から冷たい声が飛んだ。「却下よ」リュゼルは顔を上げた。ネフィリアは長卓の反対側に立ち、両腕を組んでいる。封印が完全に解けた今、手首にも足首にも黒い枷はない。数百年にわたって彼女を柱へつないでいた六本の鎖も消え、白い肌には薄い傷痕だけが残っている。黒紫色の簡素な衣服は王域が生み出したものらしく、動きやすい細身の長衣に膝下までの革靴という姿だったが、その立ち方には拘束されていた頃とは違う静かな威厳が戻っていた。「まだ何も説明してない」「説明する前から分かるもの。あなたが一人で死者溜まりへ行こうとしているのでしょう」「中には入らない。周囲を見るだけだ」「昨日も同じようなことを言っていたわね」「実際、そのつもりだ」「あなたの『そのつもり』ほど信用できないものを、私は今のところ知らないわ」子どもたちが朝食の後片づけをしながら、二人のやり取りへ視線を向け始めた。シュカに至っては、水で濡れた皿を布で拭く手を完全に止めている。リュゼルは子どもたちの前で言い争うつもりなどなかったが、ネフィリアの表情を見る限り、こちらが折れなければ静かに終わる可能性は低そうだった。「城を空けるわけにいかないだろ」「なぜ?」「なぜって」「王域の結界は私が外へ出ても消えないわ」「でも、城から離れるほどあんたの魔力は弱くなる」ネフィリアの眉がほんのわずかに上がる。事実だっ
水音がするだけで、かつての地下神殿とは別の場所に思えた。《王域形成》が発動する以前、祭室の奥にあった水場は、岩の裂け目から濁った雫が落ちるだけの頼りないものだった。革袋を満たすにも長い時間がかかり、底には細かな砂が沈んだ。今では白灰色の石壁に沿って細い水路が走り、透き通った水が絶えず流れている。指を浸せば冷たく、鼻を近づけても腐臭も鉱物臭もない。崩れかけていた天井は継ぎ目のない黒銀の梁に支えられ、亀裂の奥から魔物が這い込んでくる気配も消えていた。城、とネフィリアは呼んだ。リュゼルには、まだその言葉が自分たちの居場所を指しているという実感がない。王座を思わせる高台があり、広間があり、寝室として使える小部屋がいくつも生まれた。外周には淡い紫色の膜のような結界が張られ、夜ごと聞こえていた獣の唸り声も遠ざかった。石床には冷気を和らげる熱が通り、裸足で歩いても以前ほど足裏が冷えない。それでも、目の前の木皿に載っている肉は増えなかった。リュゼルは切り分けた岩鎧猪の燻製肉を見つめながら、残量を頭の中でもう一度数えた。闇爪狼の干し肉が二袋半。岩鎧猪が一頭分には少し足りない程度。地下茸は食用確認済みのものが十数本。灰牙傭兵団が残した硬い乾燥パンは、子どもたちが無理なく食べられるよう水で戻せば三日分ほどになる。月角兎のために集めた青苔と柔らかな根草も、この周辺では十分な量が採れない。人が七人。月角兎が三匹。満腹を求めなければ、五日。さらに切り詰めれば七日。しかし、切り詰めた先に何があるのか。リュゼルはそこで計算を止めた。「リュゼル」呼ばれて顔を上げる。広間の反対側に座っていたネフィリアが、紫紺の瞳で彼の手元を見ていた。知らないうちに、肉を自分の皿から除けていた。一切れ。二切れ。脇へ寄せてある。「食べて」「あとで食う」「その言い方をする時は、食べないつもりでしょう」「食料の残りを見てただけだ」「それと、あなたの食事を減らすことに何の関係があるのかしら」言葉に詰まった。その間に、向かい側で衣擦れの小さな音がした。一番幼い少女が、自分の皿から肉をつまんでいる。五つか六つほどの年齢にしか見えない小さな手で、燻製肉を半分に裂こうとしていた。固い肉は簡単には千切れず、細い指先が赤くなる。隣に座るシュカの皿へ移そうとしているのだと気づき、リ







